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東京地方裁判所 昭和28年(ワ)10729号 判決 1955年1月31日

原告(反訴被告) 武蔵工業株式会社

被告(反訴原告) 石渡常吉 外一名

主文

原告(反訴被告、以下単に原告という)の請求を棄却する。

原告は被告(反訴原告、以下単に被告という)石渡常吉に対して金十二万千三百四十七円、被告関口正彦に対して金十万四千四百六十二円を支払わなければならない。

訴訟費用は原告の負担とする。

此の判決は第二項について被告等においてそれぞれ金三万円宛の担保を供するときは仮に執行することができる

事実

第一、請求の趣旨

本訴につき、

原告は被告石渡常吉に対し、退職金十二万千三百四十七円被告関口正彦に対し、退職金十万四千四百六十二円を支払うべき債務のないことを確認する。

訴訟費用は被告等の負担とする。

との判決を求める。

反訴につき、

被告等は主文第二、第三項と同旨の判決並びに仮執行の宣言を求める。

第二、本訴の請求原因及び反訴の請求原因に対する答弁

一、被告らは原告会社の従業員であつたが昭和二十七年二月一日退職した。ところで昭和二十三年三月一日制定の就業規則附属退職金給与規定により計算した退職金の額は被告石渡について金十二万千三百四十七円、被告関口について金十万四千四百六十二円となるけれども、次の理由で原告にはその支払義務がない。

二、原告会社は昭和二十五年三月二十二日被告らを含む原告会社従業員によつて組織された労働組合との間に労働協約を締結し、その第七十五条に「就業規則及給与規定は協議して別に定むるものとす」と定めたから、これにより前記の就業規則(退職金給与規定及び従業員給与規則を含む、以下同じ)を廃止する意思表示がなされたものと解釈し、新たに協議して就業規則を定めるべく草案を作成し、数回被告らの属する組合と接渉を重ねたが成立に至らなかつた。従つて右協約により退職金給与規定は廃止され且つこれにかわる新給与規定が成立しなかつたので、原告は被告らに対して退職金支払の義務を負わないわけである。然るに被告らは前記の退職金給与規定は新しい規定ができるまで依然有効だと称し退職金債権の存在を主張して譲らない。

三、しかも本件では、前記労働協約締結の際被告らの承諾により、退職金を支払うべき契約も解約したのである。被告らは右協約締結後に退職金を支払つたものがあると主張するが、これは退職者中その退職の方法、従業中の勤務ぶり等により、特に原告は支払の義務はないが、重役間の協議により好意的に現物等を支払つたにすぎない。

よつて原告は被告らに対して前記のような退職金を支払う債務のないことの確認を求める。

四、反訴につき、「被告らの反訴請求を棄却する。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決を求め、被告の反訴請求原因事実中、被告らが昭和二十七年二月一日退職したこと及び退職金の計数上の額は認めるが、その余の事実は否認する。

第三、本訴の請求原因に対する答弁及び反訴の請求原因

一、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求める。

二、原告主張事実第一項は支払義務の点を除き認める。

三、原告主張事実第二、三項中、原告主張どおり労働協約を締結し、同協約第七十五条に原告主張どおりの条文のあること、原告が被告らに対する退職金支払を拒絶したこと、被告らが退職金給与規定は新しい規定ができるまで有効だと主張したことは認めるが、その余の事実は否認する。

四、従来実施の就業規則は労働協約とは独立して存在し、かつ独自の効力をもつものであるから、労働協約により「就業規則及び退職金給与規定は協議して別に定める」と規定しただけで就業規則が当然に改廃される理由はなく、従つて依然有効に存続し、拘束力を有する。即ち右協約は退職金の給与について何ら客観的な「基準」をきめたものでないから、労働協約と就業規則との牴触優劣の問題すら生ずる余地はないのみならず本件就業規則の外、右協約の規定に従つて別に定められた就業規則のないことは原告の主張する通りであるから、かような場合にもともと労働協約とは全く別異な取扱いをうけ、同一平面において結びつくことを得ない就業規則について労働協約中にただ単に「協議して別に定める」という条項をおいたことによつて、当時実施中の就業規則は直ちに失効し、最早存在しなくなつたと解することはできない、そればかりではない、原告の主張するような労働協約の解釈が許されるならば、本来使用者が一方的に就業規則を制定する権能に一定の抑制を与えるべき労働協約を締結したことによつて、かえつて労働組合員である被告らは従来就業規則上保障されていた地位すら失うことになるという不都合な結果になるのであつて、原告の主張は労働協約が第一次的には労働者の利益、保障に奉仕すべきもので、協約条項の解釈も労働者側に有利な推定が働くという労働協約解釈の基本的方向を誤つたものである。

五、又かりに右のような労働協約と就業規則との効力の特殊性を度外視して考えてみても、右労働協約の規定によつて就業規則は失効したという解釈は成りたたない。それは「将来原告が労働組合と協議した上で就業規則を定めよう」というように新しい就業規則を制定するには原告が一方的になさない旨の協定をしたにすぎない。その反面解釈から従来の就業規則はその日限り廃止するという積極的な合意を導き出すことは不可能である。しかも労働協約を締結する当時、当事者にとつて就業規則を早急に改訂しなければならないような事情は存しなかつたのである。

六、協約第七十五条成立の事情は次の如くである。

当時実施されていた本件就業規則には、退職金等給与につき詳細な定めがあり、かつそれには労働組合との協議約款もついていたことでもあり、今さら事改めて労使間でそれらにつき協議をとげ、新たな就業規則を定める必要をみなかつた。そこで当事者は右の如き内容の就業規則が実施されている現状を前提におき、本件労働協約より前に締結された旧労働協約中にもおかれていた同趣旨の規定をおくことで事足れりとしたのである。すなわち右条項をおいた理由は別に従来と異なつた特段の事由によるものではなく、単に就業規則は原告会社で一方的に設定し又は変更しないことを再確認する目的にでたものに外ならないのであり、結果として従来の就業規則をそのまま踏襲、存続させることとなつたのである。元来原告会社と被告らの所属していた労働組合との間には昭和二十二年八月十二日労働協約が締結され、その第六条に「会社は従業員の賃金給与退職手当労働時間休暇厚生施設等については組合と協議決定する」と規定され、翌二十三年三月一日就業規則が会社と組合との協議によつて設定され、同第五十二条に「この規則の改廃は組合と協議の上決定する」と規定し、同年九月十五日旧協約を改訂して新協約が締結されたが、同第六条に「賃金給与制度はすべて組合と協議してきめる」と規定し、同協約附則に「この協定書に協定した以外の諸事項を含む残存する諸規定は逐次本協約書に包含してゆくがその改廃については会社と組合で協議する」と定め、昭和二十五年三月二十二日再び右協約を改訂して新協約を締結し、同第四十一条に「会社の支払う給与の体系は別に定める賃金給与規定による」と定め、同第五十二条に「従業員の退職金は別に定める退職金給与規定により支給す」と定め、同第七十五条に「就業規則及び給与規定は協議して別に定めるものとす」と規定したが、従前の就業規則の諸規定の外別に新たに規定を設定していないのである。したがつて前述のように右協約の第四十一条、第五十二条、第七十五条の規定は既に定めてある就業規則を明示したものに止まり右協約第七十五条によつて従来の就業規則を廃止する意思表示があつたものではない。

七、更に又本件労働協約が締結される以前はもとより締結後でさえも、労使間において本件就業規則は効力を保持し、原告会社も本件就業規則が当然存続するという態度をとつてきた。すなわちこれまで原告は退職者に対して右退職金給与規定に従つて退職金相当額を給与してきたのである。

八、しかも就業規則については前述のとおり協議約款があり、仮に右規定に反して会社が一方的に就業規則を改廃したとしても、それは無効であるから就業規則は依然として存在する。

九、更に本件就業規則が依然有効に存続するということは法律規定の上からもいいうる。本件の場合使用者である原告は、本件労働協約第七十五条により労働組合と協議した上で新たな就業規則をつくり、これを行政官庁に届出、かつ組合員に公示することをしない限り、届出ている従来の就業規則は廃止されたことにならず、使用者たる原告はその就業規定に拘束されて、それに基き労働契約をしなければならないからである。すなわち労働基準法第八十九条には「使用者は就業規則を作成し行政官庁に届け出なければならない。これを変更した場合も同様である」と定め、更に同法第九十三条には「就業規則(右第八十九条の規定により届け出た)で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は無効である」と定めている。原告は本件労働協約第七十五条で従来の就業規則は合意により廃止され、労働契約の内容は空白になつたというけれども、本件就業規則の外未だ新しい就業規則は設けられていないことは原告の自認しているところであり、かつ原告が失効したと称する本件就業規則については、その廃止失効に伴う法律上必要な何らの手続もとられていない。それにも拘らず従来の就業規則は廃止されて存在しないという主張は、法が命ずる就業規則の届出制度を無意味ならしめることとなり許されない。しからば本件就業規則は労働基準法の定めるところにより依然有効に存続すると解しなければならず、したがつて又労働契約の内容についても本件就業規則の定めと異なる主張は許されない。しかしてそれら労働基準法の諸規定は強行規定であつて、たとえこれと異なる合意があつたとしてもそれらの規定の適用を排除しえないものである。

十、次に原告は被告らの承諾により退職金を給与すべき労働契約は解約されたと主張するが、そのような合意をしたことはない。仮にそうだとしても、前記のように本件就業規則は有効に存続しているのであるから、基準法第九十三条の規定により右の労働契約は無効である。

また仮に原告の主張するように本件就業規則が失効したとしても、原告は被告らに対し労働契約上退職金支払の義務がある。すなわちたとえ就業規則が失効したとしても突如として労働条件が無になるわけではない。既に一度基準となつた就業規則は労働契約のなかに流しこまれ、就業規則自体とは別箇に労働契約に化体されて存続する。したがつてその後その基準たる就業規則が効力を失つても労働契約上の義務として退職金支払の義務がある。

十一、そこで被告らは、前記の通り昭和二十七年二月一日退職したから、その退職金を前記退職金給与規定により計算すると、被告石渡は金十二万千三百四十七円、被告関口は金十万四千四百六十二円になるので、被告らは原告に対してそれぞれ右退職金の支払を求める。

第四、証拠<省略>

理由

一、被告らが原告会社の従業員のところ、昭和二十七年二月一日退職したこと、昭和二十三年三月一日制定の原告の就業規則附属退職金給与規定により計算した退職金の額は被告石渡について金十二万千三百四十七円、被告関口について金十万四千四百六十二円になること、昭和二十五年三月二十二日原告は被告ら従業員によつて組織された労働組合と労働協約を締結し、その第七十五条に「就業規則及給与規定は協議して別に定むるものとす」る旨の規定を設けたこと並にこれに基づく就業規則と附属退職金給与規定の制定されなかつたことは当事者間に争がない。

二、原告は右第七十五条によつて従前の就業規則を廃止する意思表示がなされたものであり、したがつて退職金支給につき適用する規定がなくなつたから退職金支払の義務はないと主張し、被告らは右就業規則は新しい規則ができるまで有効だから退職金給与規定も依然として有効であると主張するので、先ずこの点を検討する。

一般に当事者間に協定が成立し、これが双方調印の文書によつて表明された場合には、その協定の内容を把握するについて文書が有力な資料であること勿論であるが、その用語の趣旨に疑義あるときは、単に文言の表現に拘泥することなくこれを使用するに至つたいきさつとが協定成立の際の模様及びその前後の事情等一切を参酌し当事者の真意を探求して決すべきであることは多言を要しない。

ところで原告と被告ら従業員組合との間に締結された従前の労働協約の締結と就業規則の制定との関係はどうかと見るに成立に争のない甲第一〇号証及び乙第一号証、同第三号証の一、二によればまず昭和二十二年八月十二日原告とその従業員組合との間に労働協約(乙三の一)が締結され、その第六条には「会社ハ従業員ノ賃金給与退職手当労働時間休暇厚生施設等ニ就テハ組合ト協議決定スル」と規定され、次で翌二十三年九月十五日にはこれが廃されて新協約(乙三の二)が締結され、同第六条に「賃金給与制度は全て組合と協議してきめる」と定め、なお同協約附則に「この契約書に協定した以外の該事項を含む残存する諸規定は逐次本協約書に包含してゆくがその改廃については会社と組合で協議する」と定め、その後昭和二十五年三月二十二日本件の協約(甲一)が締結されたのであるがその第四十一条に「会社ノ支払フ給与ノ体系ハ別ニ定メル賃金給与規定ニ依ル」同第五十二条に「従業員ノ退職金ハ別ニ定ムル退職金給与規定ニ依リ支給ス」同第七十五条に「就業規則及給与規定ハ協議シテ別ニ定ムルモノトス」と規定されたこと及び就業規則(乙一)は最初の労働協約(乙三ノ一)締結後の昭和二十三年三月一日原告会社及び組合協議の上設定され、同第五十二条には「この規則の改廃は組合と協議の上決定する」との規定があること明らかであり、その他に就業規則の制定を見なかつたことは弁論の趣旨により推知できる。

そこで本件協約第七十五条の文言を従前の協約中右第七十五条と同じ趣旨を定めたと思われる条文の文言と比べてみると、従前の協約においては賃金給与等につき協議決定する又は協議してきめるとの文言を使用しているが、本件協約では、就業規則及給与規定は協議して別に定めるとの文言を使用しているので、その相違は「別に」なる用語にあつてその他に格別の相違は見当らない。そして第二回目の労働協約締結後別に就業規則に包含される附属給与規定が改めて制定されたことのないことは前認定の通りであるから従前の就業規則の効力に変更がなかつたものと推認すべきでありこの経緯に照せば「別に定める」なる用語はその際の協議に別段の意思表示のなされない限り従前と異つた格別の意味を与える趣旨に解することはできないものというのが相当である。

ところで別段の意思表示の点並に右七十五条の文言が使用されるに至つた経緯の点はどうかというに、証人細海直市、大野良夫、被告本人石渡常吉の各供述によれば、

本件労働協約(甲一)の締結に当つて、組合側は当時の組合長石渡が上部団体に連絡して協約原案を作成してもらい会社と交渉することとし、原告会社に於ても細海庶務主任は大野工場長から会社の実体に即応するような協約作成の指示を受け右組合の原案を中心に交渉の上右協約を妥結作成したのであるが、問題の第七十五条については特にその時論議はされず従来の就業規則の効力について何等の言及がなされなかつたことが認められる。もつとも証人細海直市の証言によれば原告会社側としては従来の就業規則を会社の実情に則した有利のものに改正したいと考えており、その改正は協約締結後協議をすれば容易にできるものと思つていたので協議ができない場合の就業規則の効力の点までは考え及ばず、その点について何等の意思表示をしなかつたが協約締結後新しい就業規則の原案をつくつて改正の交渉にはいると、組合側は原告会社の退職金の定めについては従来の線を確保しようとし、屡々交渉を重ねたけれども両者の意見が一致せず、結局新しい給与規定を含む就業規則の制定されるに至らなかつたことが認められる。右認定を左右するに足る証拠はない。而して最終の本件労働協約の成立後も依然として従前の就業規則に従い賃銀の支給されたことは被告本人石渡常吉の供述に照し明らかであるので少くとも給与規則に関する限り依然その効力を保有していたものというべきであり従つて就業規則の一部である退職金給与規定のみが別段の意思表示なくして廃止されたものとは到底考えられない。してみれば右第七十五条の規定は従前の協約に定められたところと同一趣旨を重ねて宣言したもので新しい就業規則を制定するには原告が一方的になさず組合と協議を要する旨の規定と解すべきであり、従つて従来の就業規則を即時に廃止する意思表示がなされたものということはできない。そしてその後別に新しい就業規則が制定されたとの主張立証のない以上、従来の就業規則に包含される退職金給与規定は依然その効力を有するというの外はない。

三、次に原告は本件労働協約締結の際、被告らの承諾により退職金を支払うべき契約が解約されたと主張するけれどもこれを認めるに足る証拠はない。

しからば原告の本訴請求は失当であつて棄却すべきであり、被告らのその余の主張について判断するまでもなく、右就業規則に基づいて当事者間に争のない退職金の数額支払を求める被告らの反訴請求は正当としてこれを認容すべきであるので訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を各適用して主文の通り判決する。

(裁判官 西川美数 綿引末男 高橋正憲)

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